骨髄移植から満12年です
いつもありがとう◎成人T細胞白血病体験記, 余命宣告以降, 日々のこと
おかげさまで、本日2019年12月5日で骨髄移植から満12年が経ちました^^
干支もちょうどひと回りして、僕のO型(元はA型)の血液達は小学6年生です。
病気発症前から発症時、治療途中、治療後、現在まで環境の変化も大きなものがありましたが、僕の外見にもとても大きな変化がありました。
病気発症前の僕にしか会っていない知人、友人には髙原和也だよと名乗らないとわからないくらいです。
それほど強力な治療、薬剤を使用した副作用だと思いますが、薬害がどうだとか僕はそこを責める気持ちはありません。
自分で選択した治療方法ですし、その時はその選択をしなければ今の僕はなかったと思っています。
その「治療」という体験、経験があったからこそ感じられた感情や想いなど、すべてが必要だったと思っています。
その出来事すべてがあったからこそ、最後は自分に合ったベストな方法が僕の目の前に現れてくれて、それを選択することができたのだと思います。
病気を発症したこと、受けた治療方法のこと、させられたと思っていてもそれもすべて自分で選択したこと。
自分で選択したこと、と理解すると困難な状況もどうにかできるよう気がします。
病気発症前から現在までの写真を自分で見ても、変化が大きかったな~と改めて思います。
そして、2007年12月5日に骨髄移植。下の記事です↓
骨髄移植から約半年後にはステロイドの影響で浮腫みはあるものの、寛解状態を維持していて、体力も回復し、職場への挨拶も兼ねて石垣島へ家族旅行。
髪も眉もフサフサに戻っていました。
骨髄移植から1年も経たずに再発したため対症療法の放射線治療を受け、再び一時寛解。経済的な不安のため、いずれ再々発するだろうと思いながらも移植から約1年半で復職しました。
2009年4月に職場復帰したもののすぐに腓骨を病的骨折し再々発が判明。
復帰から3カ月後に再び休職。下の記事です↓
ここまでが白血病になって、骨髄移植をして、再発して、再々発して余命宣告を受けて、自分は不幸で可哀想だ、被害者だと思っていた頃の僕の写真です。
その後、2010年4月末にある方に掛けられた言葉
「あんたそんなに死にたかったら、死んだらいいさ~」
こんなに病人ぽくて医学的にも死にそうな状態の人に(お白いを塗ってるわけではありません^^;)↓
「死にたかったら、死んだらいいさ~」
・・・・・・。
でもその言葉で僕の意識の変容が起こりました。
DNAも書き換えられたのではないかとさえ思います。
すべて自分自身がつくり出した現実なんだ。
すべて自分自身に責任があるのだと。
そして、責任を持つことで、自分の力を取り戻せました。
ここから日増しに生きる気力を取り戻していきます。
この断食の頃まで腫瘍は残っていましたが、断食中に最後の大きな浄化がありました。下の記事です↓
そして、主治医に戻ることはないでしょうと言われたお肌の色素達も、太陽にあたるところからポツポツと戻り始めてきました。
そして今の僕につながっています。
白血病発症という出来事は命がけで向き合う大きな出来事で、写真を見ても分かるように、途中、もうダメだという場面もありました。
でもこうして今、僕は生きています。
生かされています。
決して特別なことをしたわけではなく、ただその時その時、落ち込んだり、悲しんだり、怒ったり、家族に八つ当たりしたり、もちろん楽しんだり、笑ったりいろんな感情を味わっていました。
そして、自分の目の前に起こる出来事とその出来事から沸き起こる感情も含め、自分自身に責任があるのだな、ということに気付けたことが病気の自己治癒につながった大きな理由の一つだと思います。
僕の経験したことは一般常識という枠内の経験だけではなかったのですが、決して特別なものではないと思うので、これから多くの方とこの経験を分かち合っていけたらいいなと思っています。
家族、友人、知人、先輩など、ほんとに沢山の支えがあって今日という日まで生きてこられたなと、 感謝の気持ちでいっぱいです。
いいことも、いやなことも、いい人も、そうでない人も自分の周りのすべてが繋がって学び合い、気づかせ合い生きているんだな~と。
明日は12月5日だということに昨日気付いて、今日はそんなことを考えた1日でした^^
いつもありがとうございます^^
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